2013年8月28日水曜日

夏休みの宿題

ここ数日すっかり涼しく、過ごしやすくなり、かつ八月ももう終わろうとしている。
今年の夏は早々に山や海などを楽しむ事ができ、例年にないくらいに充実した夏を過ごした。
しかし、八月上旬にはそれを終えていたので、早く夏が終わらないかと、どこかで思っていた。
学生の頃を思い返すと、夏休みの宿題は、大抵八月の最終週になってようやく手を付ける始末で、夏休み最終日は徹夜が恒例行事だった。

今年の夏は宿題は残っていないだろうか?
何か大切なものを忘れている気がしてならない。
ここ最近、ごろごろ寝てしまうことが多いのだが、疲れや倦怠感が何処からやってくるのか、今一度内面を見つめ直した方がいい気がしてきた。

私は元来怠け者だから、自ら律して外に赴くようにしている。
一人暮らしというのは、いくらでも怠けられ、外部との接触を避けて、自分の部屋の中に閉じこもることが可能だ。
可能だから、それをするのか、
可能だから、そうなるのか。
自分の意思が何処にあるのか注意深く見ていなければ、ただ時間ばかり過ぎてしまう。

宿題は今でも出されたら苦痛だが、苦痛足らしめる原因とは一体なんだろうか。
もっと思考することが、夏休みの宿題なのかもしれない。

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夏の遊びというのは、いかに思考をその瞬間に落とし入れ、感情だけに身を任せ、楽しむことができるかが重要だと考える。
夏はとことんバカでいいのだ。
勢いに任せることも、たまには必要だろう。
そこで得た、たくさんの反省や感情をこれから生かしていけばいいのだ。
思考と感情のバランスを考えると、考えているだけでは机上の空論でしかなく、頭の中の妄想のみで終ってしまう。
感情だけでは、ワガママなお子様で、無知の危うさが付きまとう。
両者のバランスをとり、自我にとらわれないように留意すればいい。
まあ、この様に言うは易しである。
行動するとはどういうことか。

いつまでも、ごろごろしてないで、まずは、部屋の掃除からしてみようではないか。

2013年8月6日火曜日

Experiment for zma

09/21/2013

【Experiment for zma】

〈zma〉
三ツ井嘉子 flute,field recording
池田陽子 violin,viola

open19:00/start 19:30
charge ¥1000 + order


at: 江古田 Cafe FLYING TEAPOT

東京都練馬区栄町27-7 榎本ビルB1

TEL.03-5999-7971

http://www.geocities.jp/flyingteapot1997/index.html




■今回は、zmaが進化する為の実験を行います。

進行は単純に、まず、それぞれのsolo performanceの後に、二人で演奏します。
個々の演奏をお互いに聴きあった後に、zmaというバンド(ユニット)に立ち返った際どんな会話が出来るか?、どんなzmaというものが浮かび上がるのか?というシンプルな実験です。

固定したメンバーで演奏するということは、バンドサウンドというものがあると思っています。
そこには、継続して積み重ねられた何かがあり、一朝一夕ではできない素敵な魅力を感じます。

また、私は自身のライブをやるなら出来るだけ、Improvisationの演奏をしたいと思っています。
ライブは生き物。何が起きるか、一夜限りの演奏にこれまた魅力を感じるからです。

Improvisationとバンドサウンド。
この様に書くと、相反するもののようにも思え、矛盾を感じます。
固定のメンバーでImprovisationすることは、予定調和的なマイナスイメージであってはいけないと思っています。

この矛盾に対し、いろいろと試行錯誤を試みたいと思ったのも、バンドを作ったひとつの理由です。

また、とあるワークショップにて、みんなでひとつの音を作るという試みをしました。
音を場を共有すること。
異なる性質の音が重なり、ひとつの音を作る。
それが、結果バンドサウンドになり得るのではないかと思いました。

そこで、今回はお互いがどんな性質の音を出しているのか、改めて聴きあい、感じ、そこからzmaというバンドサウンドを作ってみようではないかと考えています。


私は池田陽子さんをとても信頼し、かつ、尊敬して一緒にやらせていただいています。
なので、彼女のソロ演奏を単純に楽しみにも思っています。

恐らく、私のソロは前回の続きとなることでしょう。
まだまだ、前回の試みが終ったとは思っていないので…

そして、今回はこの試みを録音として記録しようと思います。
所謂、live recordingです。
いずれ、zmaとして作品を作りたいと思っていたので、今回の試みを作品として提示出来るものにしようと思っています。

これも、前回の実験の続きです。

作品とは?…


今回もフライングティーポットでのたうちまわりたいと思います。
お時間あれば、ぜひ目撃しにいらしてください。

前回の内容
http://321445fl.blogspot.jp/2013/03/experiment-vol1.html?m=1

三ツ井嘉子

2013年8月1日木曜日

駄文(07/31/2013)

もう7月が終わってしまった。
終わってしまったことになんら意味はない。
だけど、時間がまた進んでしまったことに、不安と希望が入り混じったりする。
どちらかというと、不安の方が大きいのは確かだろう。
ごまかせない何かが、時間が進むことによって大きくなる気もするけれども、そうやって不安という名の栄養を与えなければ、それが大きくなることはないと知っている。
しかし、不安というのはそんなにもいけないことなんだろうか?
不安は本能的な危険を察知するのに大事な能力だと考える。
要は、バランスが大事なのだ。
なぜなら、楽しいばかりでは楽しいことの有り難みがなくなってしまうという、とても単純なこと。
不安ばかりでは胃など内臓に悪い。興奮ばかりも心臓に悪い。
身体と向き合い、適度な状態を保つことが自分自身への責任だと思う。
好きなことをやれるのは健康な身体があってのこと。だから、身体さんありがとうという気持ちになる。
かと言って、目先の一分一秒に対して思うことがあるのは、何を恐れているのだろう。
希望のない未来に躊躇しているのだろうか、一体それはどこから湧いてくるんだろう。
いや、充実感なんていくらでもあるはずだ。だか、そこで終わりにしない、満足させないというブレーキが、もしかしたら崖から落ちないようにさせているのだろうか。
いや、その先が崖であるとは限らない。
すべては自分の着眼点の問題で、気にしないと捉えれば何も気にすることもなくなる。
意味さえ与えなければ、全てがフラットになり得る。

人は光そのもので何か反射するものがないと自分を捉える、理解をすることはできない。
たとえば、、
己が女であるかどうかは男がいないとわかり得ない。
己が太っているかは周りの人と比べないとはかれない。
己が何を考え、何を大事にしているのかも、人とコミュニケーションをはからないと気づかなかったりする。
人でなくとも本や音楽などの誰かの思いが入った作品であったり、こうして文字という見えるものにしてみたり、自然の生き物の中で理解ができたり、そうやって少しづつ自分を形成していく。
年齢がいくつかというのも、既成概念の話だろう。
ただ、いくら時間がすぎたとしても、自分という光は掌からスルスルとこぼれていくばかりで、いつまでたっても掌握できず、変化、進化し続けるだけなんだ。
いや、これは希望的観測かもしれないが…
私は何かを断定するのは好きではない。断定するとそれがそうなってしまい、粘土が固まり、ある形以外にならなくなってしまう。一度固まってしまうと、それを砕くのは至難の技だと心得ているから、そうしたくない。
だから、本能的に柔軟にフラットに、今後ももっと進化していきたいと願い、行動しよう。

これも束の間のことかもしれないが、今日はこれでいい。
おやすみなさい。
そして、皆様、今日も一日、ありがとうございました。