2013年3月30日土曜日

作品とは

我思うに…

「作品」とは、空間があり、そこに作者が意図的に何かを現すこと

なんではないかと思う。



キャンバス、舞台、お皿、スクリーン、部屋…
何かしらの、限定された(基本的には)空間が存在する。

次に、作者が存在する。
作者がいて、現したい何かを空間に出現させる。
それは物質的な何かを出現させることだと思う。


ならば、空間があり、作者が存在すれば、それだけで「作品」となり得るのだろうか?
答えは、作者が「作品」だと捉えるならそうなるのだと思う。
残念ながら、聴衆や観客は、作品を定義するにあたって、実は重要ではないのかもしれない。

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今回どうして「作品」というワードにこだわったのかというと、私は「作品」と言われるものが好きだからだ。

「作品」には、何かを現したい作者の欲求や強い意思があり、「作品」を観た、聞いた、感じた後、受け手として自分の中に別の次元の新たな広がりを感じることがある。
一過制ではない、細部までの作者のこだわり。一朝一夕にできないもの。
そして、受け手側に生まれる感情、情念。

時間をかければいいとは限らないが、
時間をかけると作者の情や意思が細部まで染み渡るのだろう。
そう、いい作品は、いつも入念に準備がなされていると思う。


そこで、頭の中で矛盾を感じた。
Improvisationにも、いろいろな手法があると思うが、私はImprovisationをやるなら、自分の状態を0(ゼロ)にしないといけないと思っている。
過去の再現性ではなく、Improvisationは今、ここに現れるものだと思っている。

自分が必ずしもそれができているとは思っていないが、演奏する上で、自分が意識していることに、過去の自分の演奏の(特によかった)記憶を忘れるように努めている。
私はそうしないとその場の音の中に入っていけない。
今、その瞬間に生まれる音を感じたい。



入念に作り込まれた「作品」とその場で瞬間的に生まれたImprovisation。
その場に生きてる音楽がImprovisationだと思う。


Improvisationは、日々の練習が「作品」作りにおける準備と言えるかもしれない。
だが、自分が聴衆としてImprovisationのライブを聞きに行った際、「作品」として特に捉えてはいないことに気づいた。

セッションという形態が多いからか?
作り手の実験的、単楽的な要素を感じるから?
「作品」と言ってしまうとImprovisationとして捉えられなくなるのか?
何か意思をもってImprovisationをやったら、Improvisationにならないのか?
何かを入念に準備して作り込まれたらImprovisationではならなくなるのか?

(今こう書いていて、もうすでに私の中でImprovisationが何かの固有名詞になっていることが疎惜しい。)


どんどん、何が言いたいのか支離滅裂になってきたが、、
とにかく、そういう内側にこもったImprovisationのライブは大抵つまらない。



「作品」は空間と作者が作り出すが、それを受けとった聴衆や観衆へさらに広がりをみせる。
私が演奏したいのは、Improvisation。
Improvisationで、一過性ではなく、受け手側への広がりを持たせられるような「作品」として提示するのは邪道か?
「作品」として意識した時ImprovisationはImprovisationとならないのか?

どうやら、この辺りが気になるらしい。


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