2013年8月1日木曜日

駄文(07/31/2013)

もう7月が終わってしまった。
終わってしまったことになんら意味はない。
だけど、時間がまた進んでしまったことに、不安と希望が入り混じったりする。
どちらかというと、不安の方が大きいのは確かだろう。
ごまかせない何かが、時間が進むことによって大きくなる気もするけれども、そうやって不安という名の栄養を与えなければ、それが大きくなることはないと知っている。
しかし、不安というのはそんなにもいけないことなんだろうか?
不安は本能的な危険を察知するのに大事な能力だと考える。
要は、バランスが大事なのだ。
なぜなら、楽しいばかりでは楽しいことの有り難みがなくなってしまうという、とても単純なこと。
不安ばかりでは胃など内臓に悪い。興奮ばかりも心臓に悪い。
身体と向き合い、適度な状態を保つことが自分自身への責任だと思う。
好きなことをやれるのは健康な身体があってのこと。だから、身体さんありがとうという気持ちになる。
かと言って、目先の一分一秒に対して思うことがあるのは、何を恐れているのだろう。
希望のない未来に躊躇しているのだろうか、一体それはどこから湧いてくるんだろう。
いや、充実感なんていくらでもあるはずだ。だか、そこで終わりにしない、満足させないというブレーキが、もしかしたら崖から落ちないようにさせているのだろうか。
いや、その先が崖であるとは限らない。
すべては自分の着眼点の問題で、気にしないと捉えれば何も気にすることもなくなる。
意味さえ与えなければ、全てがフラットになり得る。

人は光そのもので何か反射するものがないと自分を捉える、理解をすることはできない。
たとえば、、
己が女であるかどうかは男がいないとわかり得ない。
己が太っているかは周りの人と比べないとはかれない。
己が何を考え、何を大事にしているのかも、人とコミュニケーションをはからないと気づかなかったりする。
人でなくとも本や音楽などの誰かの思いが入った作品であったり、こうして文字という見えるものにしてみたり、自然の生き物の中で理解ができたり、そうやって少しづつ自分を形成していく。
年齢がいくつかというのも、既成概念の話だろう。
ただ、いくら時間がすぎたとしても、自分という光は掌からスルスルとこぼれていくばかりで、いつまでたっても掌握できず、変化、進化し続けるだけなんだ。
いや、これは希望的観測かもしれないが…
私は何かを断定するのは好きではない。断定するとそれがそうなってしまい、粘土が固まり、ある形以外にならなくなってしまう。一度固まってしまうと、それを砕くのは至難の技だと心得ているから、そうしたくない。
だから、本能的に柔軟にフラットに、今後ももっと進化していきたいと願い、行動しよう。

これも束の間のことかもしれないが、今日はこれでいい。
おやすみなさい。
そして、皆様、今日も一日、ありがとうございました。

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